なぜ誰もBIP-110に賛成しなかったのか
要旨
ビットコインのソフトフォーク提案 BIP-110 は、2026年8月の発動期限を前に、事実上の廃案が確実となっている。マイナーの賛成シグナルは半年以上にわたり1%未満で推移し、直近は実質ゼロである。提案が設定した発動条件55%はもとより、いかなる水準の支持も形成されていない。
本稿は、この「支持ゼロ」を単なる否決ではなく、賛成が成立する条件が構造的に欠けていた結果として分析する。ソフトフォークへの賛成が成立するには、動機・採掘力・正統性の三要素が必要となる。関係者を分解すると、この三要素が誰の上にも同時には揃わなかったことがわかる。マイナーは採掘力を持つが動機を欠く(拒否)。経済ノードは支持誘因が弱く、関与を避けた(静観)。最も強い動機を持つ個人ノード運営者は、発動に関する決定権を持たない(圏外)。加えて、論点が技術的是非からガバナンスの正統性へ移行したことが、提案の技術的評価とは独立に支持形成を妨げた。
1. 提案の概要
BIP-110 は2025年12月1日、匿名の開発者 Dathon Ohm 氏(筆名)が提案した。新規出力を原則34バイト以下、データ格納用スクリプトである OP_RETURN を83バイト以下に制限し、既存データを保護したまま、約1年間、Ordinals 等の新規データ書き込みを実質的に禁じる時限的なコンセンサスルール変更である。
目的は、非金融データによるブロックチェーンの肥大化の抑制にある。背景には、コア開発者 Luke Dashjr 氏が主張してきた分散性への懸念がある。ビットコインの検証可能性は、個人が安価な機材で全チェーンを保持できることに依存する。データ肥大が進めば個人の運用コストが上昇し、検証機能が大資本へ集約される。Dashjr 氏はこれを「存在の危機」と位置づけている。目的の妥当性には一定の支持がある一方、後述するとおり、その実現手段を握る主体の動機とは一致しなかった。
2. 現況
主要な指標は次のとおりである。
- マイナーの賛成シグナル: 1%未満、直近は実質ゼロ
- 主要マイニングプール(Foundry USA、Antpool、F2Pool): 沈黙または明示的な拒否
- 賛成を表明した採掘者: Ocean Mining および小規模採掘者(BIP110、Roughnecks110)に限定
- BIP-110 を強制する Bitcoin Knots: 到達可能ノードの22〜23%に普及。ただしノード数には単一主体による多数偽装(Sybil)の疑いが指摘されている
- Bitcoin Core: 本提案を未採用(未マージ)
3. 関係者別の分析
3.1 マイナー:採掘力はあるが動機がない(拒否)
賛成シグナル(bit 4)を発する主体はマイナーであり、ソフトフォークの発動は事実上マイナーの合意に依存する。マイナーにとって、Ordinals や Runes は排除対象ではなく、手数料を支払う需要である。非金融データはブロックスペース需要を押し上げ、2023年以降、手数料収入の重要な部分を構成してきた。BIP-110 はこの収入源を、開発者の主観的基準に基づいてプロトコルレベルで制限する。マイナーにこれを受け入れる経済的合理性はない。
シグナリングにおいて bit 4 を掲げないことは、未回答ではなく、制度上の反対を意味する。1%未満という水準は、採掘部門が組織的に不支持であることを示す。
3.2 経済ノード:支持誘因が弱く、関与を避けた(静観)
取引所・カストディアン・決済業者からなる経済ノードは、ネットワークの経済的多数派を構成する。理論上、BIP-110 を支持する動機は複数存在する。データ肥大によるストレージおよび同期コストの抑制、手数料高騰に伴う送金体験の悪化の回避、違法データ混入によるコンプライアンスリスクの低減である。
しかし実際には、経済的多数派による支持は形成されなかった。主要取引所はいずれも賛成シグナルを出さず、論争への関与自体を避けた。確認された唯一の対応は、8月の期間に備えた入金承認数の引き上げ検討という運用面の防御であり、賛成の意思表示ではない。
支持が形成されなかった要因は、動機の弱さとダウンサイドリスクの非対称にある。大規模事業者にとってノード運用コストは予算上軽微であり、支持へ転じる誘因は小さい。他方、BIP-110 が備える UASF(ユーザー起動型ソフトフォーク)的な強制シグナリング設計は、マイナーの支持がないまま強行された場合にチェーン分裂を招く。分裂は顧客資産の混乱とシステム停止という直接的損失に直結する。誘因が弱く、ダウンサイドが大きいため、経済ノードは反対ではなく不関与を選択した。
3.3 個人ノード運営者:動機はあるが決定権がない(圏外)
BIP-110 が主に想定した受益者は、大規模事業者ではなく、個人のフルノード運営者である。安価な機材で自宅ノードを運用する層は、データ肥大による機材更新負担を最も強く受ける。この層は受動的でもなかった。強制ソフトウェア Bitcoin Knots は到達可能ノードの22〜23%に普及し、ルールの自主的な施行に至っている。
ただし、ノード運用は発動を決定しない。ノードはルールを施行するが、ブロックを生成せず、市場価値がどのチェーンに帰属するかも決めない。したがって、最も強い動機を持つ層が、発動に関する決定権を持たない。
もっとも、これは個人ノードが無力であることを意味しない。既存のルールに違反するブロックを拒否する「守り」の局面では、フルノードはコンセンサスの最終的な番人であり、主権的である。決定権を欠くのは、新たな制限を能動的に発効させる「攻め」の局面に限られる。BIP-110 が必要としたのは後者であり、その主導権は経済的多数派とマイナーの同調なしには成立しない。
この受益者と決定権者の乖離が、支持形成の構造的な障害となった。
4. ガバナンス上の論点:誰が決めるのか
論争は進行とともに、技術的是非(非金融データがスパムか否か)から、決定権の所在(誰がビットコインの仕様を決めるか)へ移行した。
反対派は、提案の主導者である Dashjr 氏の過去を論拠に用いた。2014年、同氏は自身が保守する Gentoo Linux 版ビットコインに、SatoshiDice 等への支払いを遮断するアドレス・ブラックリストを組み込んでいた。同機能は後に撤回・謝罪され、Bitcoin Core は採用していない。Nakamoto 社CEO の David Bailey 氏はこの事案を再提起し、同氏がプロトコル変更を主導する資質を問題化した。擁護派は、当該事案は撤回済みで現在の技術的妥当性とは無関係であり、人格に対する攻撃であると反論している。
論点がガバナンスへ移行した結果、提案の技術的評価は支持形成の決定要因ではなくなった。ビットコインの設計思想が重視する中立性および検閲耐性の観点から、主観的基準による取引制限は前例上のリスクと受け止められた。Michael Saylor 氏は「前例こそが危険である」と述べて反対し、Adam Back 氏は設計上の欠陥を「致命的」と評した。開発者 Peter Todd 氏は、BIP-110 の規則に準拠した取引に BIP 本文を埋め込み、規則がデータ格納を根絶できないことを実証した。
5. 8月の期限とチェーン分裂リスク
発動条件が満たされないことは早期に確実となったが、対立は2026年7月時点で激化している。要因は、支持水準と最終期限の乖離にある。8月7日頃、ブロック高961,632付近で強制シグナリング期間が始まる。963,647までは、BIP-110 を採用したノードが、賛成シグナル(bit 4)を掲げないブロックを拒否する。963,648でロックイン、9月1日頃に活性化する設計である。これは、ノード側がマイナーに賛成を強制する UASF 的な仕組みにあたる。
反対派は、マイナーの支持が低くとも、一部の支持者が UASF を強行する可能性を警戒している。実現可能性は低いが、分裂が生じた場合の損害は大きい。このため、期限直前において、UASF の抑止を目的とした相互批判が強まっている。対立の激化は、結果が確定した後の段階で生じている。
6. 結論
BIP-110 の支持ゼロは、反対の集中ではなく、賛成成立条件の構造的欠如による帰結である。採掘力を持つマイナーには動機がなく、支持誘因を持ち得た経済ノードは誘因が弱く分裂リスクを回避し、最も強い動機を持つ個人運営者には決定権がない。さらに、論点のガバナンスへの移行が、技術的評価に依存しない不支持を広げた。
この結果は、特定少数によるルール変更を、経済エコシステムが現状維持で拒否した事例として整理できる。分散型ガバナンスは、切迫した目的が提示されても、全員一致の合意なしには動かないよう設計されている。同時に、本件は制度上の課題も示す。BIP-110 が保護対象とした個人ノード運営者は、決定プロセスにおいて最も影響力が小さい。受益者と決定権者の乖離は、今後の同種の提案にも共通する制約となる。